
霧島永水自治公民館館長
四本廣美さん
「永水の今までとこれから」<前編>
永水不定期インタビューは、地区公民館長である四本さんからスタート! 永水で生まれ、永水に育ち、永水で暮らし続ける根っからの“永水っ子”である四本さんに、今までの暮らしや地域の移り変わりについてお話を伺いました。
心身ともに鍛えられた若かりし日の経験

――四本さんは、もともとが永水のご出身ですよね?
「はい、そうですよ。祖父も両親も永水出身です」
――学生の頃の夢はなんだったんですか?
「親が農林業で自然が好きだったから、あまり迷うことなく農家を選びました。忘れもしませんが、地域の川畑さんがお母さんとふたりでうちに来て、一緒に農業高校に行こうと誘ってくれたんです。事前の説明会にも、川畑さんのお姉さんが車で連れていってくれました」
――その頃、都会に出る人は少なかったんですか?
「いやいや、都会に出る人が多かったですよ。いわゆる終戦後のベビーブームで生まれた人たちが集団就職でみんなバンバン出ていきました」
――四本さんにその考えはなかったんですか?
「やっぱり地元にいたかったし、農業をしてみたくて。そんなに山も畑もなかったけれど、なぜか農業に興味がありました。だけど、農業高校は寮だったから大変で」
――上下関係が厳しそうですよね。
「泣きたいくらいでした。1年の時は、それで途中で辞める生徒もいて。集団生活が本当に嫌だったのですが、今、川畑さんや地域にいる先輩たちと話すと、やっぱりその3年間で鍛えられたことが、自分たちの今の人生の基礎になっていると思います。11月に母校の90周年記念事業があるのですが、みんなで行こうと話しているところです」
――学校を卒業した後はどんな仕事をしていたんですか?
「最初、自営で農業をするつもりで3年くらい和牛の飼育と養蚕の仕事をしていました。冬場に時間があるときはアルバイトで建設業もしていましたね。静岡のダムの工事現場にもいきました」
――3年くらいということは、その後、農業は辞めたんですか?
「どうしても台風など自然災害の影響で安定した生活が送れずに悩んでいた時、消防署で働いていた同級生から消防署の採用試験があると教えてもらったんです。体力はある程度自信があったから試験を受けてみることにして、21歳の時に消防職員になりました」
――具体的にはどのような仕事をしていたんですか?
「消防吏員として多くの仕事をしました。機関員として、消防車やポンプ車、はしご車、SK車にも乗って。救急車も多く運転しました。現場に行ったとき、大切な財産を焼失したり、隊員が炎で自らの命を落としたりしないように水を送る大切な仕事です。そこで約15年間、機関員をしていました」
――その時点で36歳くらいですよね。そこから転職されるんですか?
「昭和46年から49年頃まで、二十歳前後の人たちを消防職員としていっぺんに採用をしたんです。僕は49年。だから、このままだと10年後、20年後には一気に退職者が出ることになるので退職金の問題が出てきて。それに、みんな同じように歳をとっていくので、消防の現場の力の問題もありました。それで、私たちの中から各地域の役場に数名ずつ採用して、そのかわりに消防職員に若い人たちを採用しようという話が出てきたんです」
――それに手を挙げたんですね。
「はい。消防職員として15年勤めましたし、同級生が霧島町役場にいるのも心強かったです。将来的に24時間の隔日勤務が体力的に厳しくなることは目に見えていましたし、消防では一刻一秒を争って出動するので、歳をとってからは精神的にもよくないかなとも考えていました」
――やっぱり精神的にも削られるんですね。記憶に残る体験はありますか?
「消防にいる時は、大きな火事も救急も体験しました。牧之原の10号線で、工事現場で旗振りをしていた女性が大きなトラックに跳ねられた上で踏み潰されて、2、30m引きずられたんです。トラックの下を覗いたら、ヘルメットも飛んでいて。結局、その件は不搬送でしたが、今でも忘れられません」
――悲しい事故ですね。ストレスも強い仕事だと思います。
「役場の新しい仕事でも大変なことがあるかもしれないけれど、僕はもういいと、自分から役場に行かせてくださいと希望を出しました」
――行政の仕事で、記憶に残っている出来事はなんですか?
「やっぱり平成5年の大水害ですね。鹿児島は8・6だけど、こっちはもう少し早かったんです。6月の途中から降り出して、7月中もずっと雨でした。水害がひどかった当日は、市来町から山村留学についての講話をお願いされて、5人くらいで向かっていたところだったんです」
――永水にいなかったんですね。大丈夫だったんですか?
「中央公民館の前は大雨で増水していて、溝辺から高速に上がる時もものすごく暗くて。本当に行けるんだろうか、向こうは大丈夫かなと不安に思っていました。当時はまだ携帯電話がない頃ですが、アマチュア無線で連絡を取ったら市来は大丈夫だというから向かったんです。それで現場に着いた時に、霧島がズタズタだと無線が入って」
――結局、講話はされたんですか?
「当時、消防係もしていて、消防団の出動や自衛隊の要請など協議をして対応しないといけない立場でした。今から山村留学についての講話と意見交換の打ち合わせをするというタイミングだったのですが、その情報が入り、結局おにぎりだけいただいてすぐに帰ることにしました」
――一刻を争う状況だったんですね。無事に帰れたんですか?
「それが、鹿児島市内に入ったら、高速も10号線もストップしていたんです。仕方がないので城山の共済会館に泊まって、翌る日は桜島フェリーを使って曽於から霧島に戻りました。戻ると、土砂崩れによって霧島で4名の方々が生き埋めになっていたんです」
――8・6水害の件は、こちらに来てから新聞で詳しい内容を初めて知りました。永水はどうだったんですか?
「町道や田んぼの崖崩れがあったけれど、幸いなことに住宅は潰されませんでした」
地域の力を借りて始まった山村留学制度

――役場には何年まで勤められたんですか?
「確か平成25年の3月に退職したと思います。そこから5年間は、ご縁があって社会福祉協議会にいました。仕事を辞めて、農林業や地域のことを思いっきりやりたいという気持ちもありましたが、元気さえあれば将来できるから勤められる間は勤めたほうがいいかなと思って」
――自治会長にはいつなられたんですか?
「働いていた頃から地区公民館の会計や副館長ではあったのですが、会長になったのは定年して役場を辞めてからですね」
――それはみんなからの推薦とか。
「順番みたいなものですね。今まで色々な仕事をして辞めた人たちが次々に頑張ってくださって、うちの兄貴も定年で帰ってきて務めたので、次は私がということで。市野々の自治会は順番に回ってくる形です」
――そこから、公民館長はどんなきっかけで就任されたのですか?
「当時の公民館長だった小濱さんが、次の公民館長を松元さん、副館長を私にやってほしいと相談に来たんです。小濱さんがずっと頑張ってきてくれたことを十分知っていたので、小濱さんが言うなら私もNOとは言えないと、副館長を引き受けました。そこから松元さんが3年公民館長をされて、松元さんが辞める時に、そのまま上がった形です」
――それは何年前ですか?
「私が今、館長として7年目です。副館長から数えると、もう10年くらいになります」
――最近は、役員をやりたがらない人が多いと聞きますが、その中で地域の役割を受ける理由はなんですか?
「私は本当に永水っ子だから、永水に役立ちたいという気持ちがあります。誰かがしないといけないことがあって、それが私ができることならやろうという思いです。一期2年で、3期したからもういいかなと思ったのですが、今4期目もさせていただいています。残念ながら、今は自分から手を挙げる人はいないですね」
――じゃあ、跡継ぎさん大募集中ですね。先程、山村留学についてのお話がありましたが、それはどういった経緯で始まったんですか?
「平成2年くらいから、永水小学校を改築しようという話が出ていました。ただ、昭和の終わりから平成の初めにかけて児童数が減ってきたんです。児童たちは作文コンクールや理科コンクール、水泳、陸上、バレーボール、サッカーとものすごく頑張っていました。僕は当時PTA会長で、この児童数だと本館改修の補助金が下りないかもしれないと悩んでいたら、教育長が山村留学制度というものがあると教えてくれたんです」
――その頃、全国的にも山村留学制度はあったんですか?
「東北に少しありましたが、鹿児島ではまったく。九州でもひとつ、ふたつくらいでした。それで、当時の役場の学校管理課長や学校長、永水小のPTA役員に話をして、早速、教育委員の研修として山村留学を実施している熊本の産山村と大分の前津江村に視察に行ったんです。永水からは私と、入水の小濱さんが参加しました」
――皆さん、賛成だったんですか?
「平成4年が100周年だったので、PTAで相談した時は、100周年の大きな事業を目の前に抱えているのに、山村留学なんて新しい事業に取り組めるかよ! と心配されました。でも、このままだと児童数が10年後には30を切ることがはっきりしていたので、何かしないといけない状況でした」
――今、永水小は32人ですが、その人数を保っているのは山村留学制度があるからですか?
「山村留学制度もそうですが、特認校制度もあるからですね。山村留学制度を始めて、一時期はどんどん児童数が増えたんです。始めた頃は、40数名しかいなかったのですが、一時は80名まで復活したんですよ」
――ほぼ倍増ですね。じゃあ、山村留学制度はうまくいったんですね。
「はい。平成4年度に100周年行事をばっちり盛大に挙行することができて、山村留学も実施することになりました。たまたま4年度から留学生含め5名がバランスよく来てくれたので、その時は複式学級がいっぺんに解消したんです」
――まだいい時代ですね。単式は何年くらい続いたんですか?
「10数年は続いたはずです。当時、PTAが20数世帯あったかな。それ以外の地域の人たちも里親をしてもいいと言ってくださって、制度に登録している家庭が30世帯くらいありました。毎年、都会からやってくる子どもたちを、自分の子どもと同じように一般の家庭で預かったわけですからね。それは本当に皆さん頑張っていただきました」
――大変なことも多々あったんじゃないですか?
「面談もしましたが、当時は来てくれることがもう嬉しくて、外すことはほぼなく、できるだけ預かる方向で動いたんです。実際、毎晩おねしょをする子や、基本的な生活習慣がまったくできていない子もいました。こういったことも受け入れてくれたのは、本当に地域の力です。里親にはなれないけど、できることはするからと看板の作成を手伝ってくれる人や、行事に積極的に参加する人も多く、私も本当に有り難かったです」
心身ともに鍛えられた若かりし日の経験




